岩崎ひろし

いわさき 広
日本共産党横浜市会議員

プロフィール


■趣味・特技
料理(共働きで3人子育て)、落語鑑賞、国宝の塔など古建築の研究、高校教員免許

■モットー
・調査なくして発言なし
・継続は力(約束を守る)
・区民の味方(寄り添い、耳を傾け、ともに行動)

■略歴
横浜国大(工教)建築学科卒、党戸塚委員長、横浜で日本共産党員の一員として50年

■出身
滋賀県、1946年生まれ

■家族
妻(保健活動、東戸塚小応援団等ボランティア)と二女一男

■住所
戸塚区上倉田在住(ほっと戸塚)

私の歩んだ道

1.「よく遊び・よく遊び」出生から小学校4年生まで

 1946年11月7日、私は、宮大工棟梁をしていた父・五平、母・とみの4番目の子として滋賀県の鈴鹿山脈の山村で生まれました。

家の前の道路 村は、愛知川(えちがわ)沿いに十戸ばかりが集落をつくっていました。
 村民の生業はほとんどが林業で、自給自足のために急斜面を利用して畑を耕していました。山間のこの村は自然が豊かで、子どもたちは、春はわらび、夏は愛知川でアユやウナギ、秋はきのこなどの山菜をとって遊びました。小学校4年生までは、隣の集落にある分校に通いました。分校は2教室の複式授業で、1・2年生、3・4年生が一緒に勉強をしていました。私の住んでいた萱尾(かやお)という集落には、同学年は私のほかにいませんでした。

川で泳いだ場所 しかし、勉強をしたという記憶などありません。すぐ隣にあった神社で木に登ったり、川で泳いだり、とにかくよく遊びました。

(写真左上)家の前の道路 (写真右)川で泳いだ場所

2.「遊びは続く」小学校高学年

 5年生になると6キロメートルほど離れた山上という所の本校に移ります。

小学生の頃。3、4年複式授業風景 分校から本校に移る時は、内心では本当に心細くなります。というのも分校では勉強らしい勉強をした覚えがなく、本校のレベルについていけるのかが切実な問題になるからです。しかし、それも通い出して数日たち、本校の子どもとすっかり仲良くなると忘れてしまい、勉強などしないで毎日楽しく遊びまくります。

小学5年生。自宅前にて 本校に行く途中に永源寺という所があります。永源寺というと知っている人がいるかも知れません。標高約300メートルで、滋賀県の紅葉の名所として、現在でも観光バスが日に200台も詰めかける所です。また、桜田門外の変の井伊直弼の菩提時として有名です。

 しかし当時は、永源寺といっても魚屋や雑貨屋くらいしかありませんでした。こんなのどかな永源寺にダムを造るという計画がおこり、生まれ育った町や村がダムの底になってしまうといって、長いこと大人たちが反対運動をしていたのを覚えています。現在は永源寺ダムができ、分校のあった村も、生まれ育った村もダムの底になっています。

(写真左上)小学生の頃。3、4年複式授業風景(佐目分教場)
(写真右)小学5年生。自宅前にて

3.「野球で明け暮れ」中学時代

 中学校は、10キロほど離れた青野という村の中学まで自転車で通います。行きはまだいいのですが、帰りは坂道で、行きはよいよい帰りが怖い。よく考えると、この頃から足腰が鍛えられてきたと思います。

青野中学校の秋季運動会。かかしコンクール 中学校は1学年2クラス、1クラス40人程度でした。部活動も野球部とバレー部、卓球部くらいしかなく、私は野球部に入りました。

中学2年のとき。鈴鹿山脈・御在所岳登山 現在、琵琶湖国際マラソンの出発点となっている皇子(おおじ)山に、当時大きな野球場ができ、読売新聞社が後援して中学野球の県大会が毎年開催されることになりました。ちょうど3年生の時に、私たちの野球部は試合に勝ち進み、湖東(琵琶湖の東という意味)地区代表になりました。生徒会長のT君がピッチャーで、副会長の私がキャッチャーという生徒会コンビでずっとバッテリーを組んで試合をこなしたものです。その当時、県大会に地区代表で出場するというのは大変な快挙で、高校野球の甲子園出場と同じくらいに、町で話題になりました。

(写真左上)青野中学校の秋季運動会。かかしコンクール (写真右)中学2年のとき。鈴鹿山脈・御在所岳登山

4.「社会へのめざめ(1)」高校時代

 中学を卒業して、家から一番近い所にある高校へ進学しました。20キロメートル程離れた所にある八日市市(ようかいちし)があり、そこの八日市高校に進学しました。

高校2年のとき。級友たちと 八日市高校は、日本共産党の市田忠義さんの出身校で、5年先輩にあたります。また、八日市市は、新党・さきがけの武村氏が市長をしていた市です。1学年5クラス200人程度で、普通科と農業科がありました。私は普通科に通いました。60年安保など時代的に政治意識の高まっていたこともあり、高校ではサークル活動が盛んでした。2年生の時に、生徒会活動に参加する中でサークル「差別問題研究会」を仲間と作りましたが、学校がサークルとして認めませんでした。そのために顧問の先生もつかず、補助金も学校から出ないという不当な扱いを受けましたが、ただちに仲間と抗議の闘いを組んで不当な扱いをやめさせました。

 また、学校では民主青年同盟の活動も非常に盛んでした。生徒会の先輩が民主青年同盟をつくっていました。私は2年生の時に3・1ビキニデーに参加し、平和の大切さを実感し民主青年同盟に入りました。

(写真左上)高校2年のとき。級友たちと

5.「社会へのめざめ(2)」高校時代

 高校時代はまさにシュトルム・ウント・ドラング(疾風怒涛)の時代です。

高校3年生。八日市高校から原水禁大会に参加した仲間たちと 生徒会では、その年の原水禁世界大会に私たちの高校から20人の代表を参加させようということになりました。早速、旅費の捻出や平和の署名行動に立ち上がり、市内の全世帯を対象に片端から回りました。

 ところが、高校生が町中を署名とカンパを求めて活動したので、八日市高校は勉強をしないで政治活動ばかりしているのかなどの声があがり、びっくりした学校当局は、生徒の政治活動を止めさせようと圧力をかけてきました。生徒は学校に抗議すると共に、近くの太郎坊山という所に集まり、どのようにしていくか相談しました。20人の代表を参加させる決意は堅く、署名とカンパを集めながら校長の政治弾圧を糾弾し続けました。そして、とうとう20人の代表を原水禁世界大会に送り出しました。

(写真左上) 高校3年生。八日市高校から原水禁大会に参加した仲間たちと

6.横浜国大時代

 高校を卒業してから建築家を目指しいくつかの学校を受験。東京に出ていた姉を頼って、横浜国大の工学部の中にあった工教(工業教員養成所=3年制)に通いました、現在も鎌倉にある国大付属小学校の奥に、当時学芸学部所属の学生寮があり、そこに寄宿しながら弘明寺にある工教に通いました。

横浜国大時代 工教は高度経済成長期に国策で工業を教える高校教員を速成で養成しようとして、全国の国立大学九校に設置したものです。入学当初から、全国で工教学生の身分改善の闘争が全国で起こっていました。

 横浜国大も例に漏れず建築科と機械科計300人が参加して、60日間におよぶストライキを行いました。その後、その時の要求も一部実現し、四年制への編入や大学卒業の資格取得の道も開かれました。

 学生時代は学内の民主化やセツルメント活動などを通じて、地域住民と結び付く活動を進めていました。その活動の経験がやがて日本共産党の地域活動の中で生きるなど予想もしていませんでした。

7.就職してから

 学生自治会の民主化を実現する成果を収めたりして、夢中のまま卒業に必要な設計の課題を多く積み残し、卒業の時期を迎えました。就職が内定していたので、大急ぎで、それこそ完全徹夜で卒業に必要な設計の課題をこなし、何とか卒業にこぎつけました。

就職してから 1967年、神奈川県住宅供給公社に就職し、建築部設計課に勤務しました。今では考えられないことですが、県庁の管理職の住宅建設の設計や現場担当を私がやったのです。

 就職して半年を過ぎる頃、組合の執行委員に選出されました。そして仲間づくりに力を入れました。 また、地域と協力した活動の中で、非常に熱心に選挙運動などに取り組んでいる女性が目に留まりました。それが妻との出会いでした。

就職してから そして陶山圭之輔さんの仲人でいつしか結婚することになりました。結婚式はクリフサイドを借り切り、1,500円の会費制で行いました。職場を2年余りで退職し、共産党の専従となりました。専従となってからは、市民の市長をつくる会の一メンバーとして朝倉、井之川、黒川そして伊豆の各市長候補の当選を目指して活動してきました。特に、伊豆候補のときは「ゼネコン市政ノー」を合言葉に市民の広範な支持を得て、今後の活動の足掛かりを築きました。

 多くの選挙や市民運動の経験を生かし、住みよい戸塚区をめざし、住民とともに活躍したいと心に誓って日々行動している毎日です。

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